けっきょくなにもしない

おじさんのひび

未知の病気⑤!! 最後の戦い!

未知の病気との戦い。

前回はついに中間宿主という、戦うべき相手を発見したところまで。

 

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啓蒙活動

1917年に啓蒙活動の一つとしてある本が発行されました。

「俺は地方病博士だ」という本。

この本の中で、日本住血吸虫についての話が分かりやすく書いてあり、水に入らないよう促しています。

確かに、甲府盆地に長く住んでいる方は、よく「川や田んぼに素足で入ってはいけない」とよく怒られたそうです。

この本でも博士から子供が怒られていますね。

他にもおどろおどろしい絵で恐怖をあおっています。

また、こういう絵も配布されていたとのこと。

気をつけることや症状を書いています。

 

原因や中間宿主はわかったものの、まだ予防ができているわけではなく、治療法も確立しておらず、その当時甲府盆地では多くの患者がいました。

その数は尋常じゃなく、一番罹患率の高い村はなんと55%でした。

甲府盆地全体でも8,000人近い患者がいました。

 

ミヤイリガイの多さ

ミヤイリガイが多いところが病気の多いところでした。

その地域では、水の中だけでなく、草むらにも折り重なって群生するところもあったそうです。

ひどいところでは炊事場にも入り込んでいたとか。

水の中だけでなく陸上でも生きていけるというのは怖いですね。

 

薬品によるミヤイリガイ撲滅

ミヤイリガイがいるところに、硫酸を巻いたり、地域の人総出で一つ一つ箸で獲ったりしましたが、もともと繁殖力が高いミヤイリガイには無意味でした。

1924年には石灰を巻くことで貝を殺す方法を取りました。

安く効率的にミヤイリガイを退治できると広島で実証されましたが、甲府盆地の生育地域は広く、長い時間がかかりました。

 

米軍の協力

戦中にフィリピンで日本住血吸虫の寄生にあった米軍は戦後に山梨の研究を調査しにきました。

その際「俺は地方病博士だ」はかなり感嘆したという話。

アメリカの協力で様々な薬品が実験、また使用されました。

効果が上がったものもあれば、他の動植物に影響があるものまでさまざまだったようです。

 

ミヤイリガイが住みづらい環境を作る

その中、生物学者が、ミヤイリガイは水流が緩やかなところを好むという習性を発見。

用水路などをコンクリート化することを提言します。ただそれにはとんでもないお金がかかります。

しかし、さまざまな実験で、1950年には水流の速さが1m以上であれば100%ミヤイリガイは生息できないことが発見され、国の補助も受けてついに本格的なコンクリート化が進むようになります。

甲府盆地のすべての用水路をコンクリート化するという大事業は1956年より開始、1996年まで続きました。

こうしたありふれた風景の中にある側溝もコンクリート化の結果です。

ちょっと見えづらいですが、「地方病予防溝渠」を書いてあります。

 

そしてついに!

1970年初頭までに、便から卵が発見されることが激減しました。

撲滅運動ももちろんですが、水田自体の減少、農業の機械化、堆肥から化学肥料への転換、水質の変化なども原因と言われています。

1978年の発症者を最後に発病者がいなくなり、1996年山梨県が終息宣言を出しました。

1881年に嘆願書が出されてから115年がたっていました。

ミヤイリガイがなぜこの地域だけに群生しているのかなどの謎は残っているし、ミヤイリガイが絶滅したわけではないので、また定期的な調査や、実験などのためミヤイリガイや日本住血吸虫は厳重な環境で飼育をされているとのこと。

油断はできません。

 

しかし、こんな病気が日本にあり、またこんなにも困難で厳しい戦いの歴史があったとは、全然知りませんでした。こういう話こそ教科書にのせるべきでしょう。

 

けっきょく、歴史には人々のつよい気持ちが見えてくる。