日本史上、非常に困難だった土木工事の一つ、丹那トンネルを巡る旅。
ようやく最後。
地下水がトンネルにあふれ、トンネルの上にある集落の水を枯らし、崩落の発生、関東大震災では大きな問題はなかったものの、ちょうどトンネル内で断層地震が発生します。
結果、予定よりも大きく遅れ、費用も莫大となり、多くの犠牲者も出してしまいます。
しかし、そのトンネル工事もついに終わりにさしかかります。
この記事は吉村昭の小説「闇を裂く道」をもとに書いています。諸説ありの部分もあります。
- ついにトンネルがつながった!
- 渇水問題の終息
- 函南駅
- 工事の完成するが日本の状況は最悪
- 三島側の慰霊碑
- 熱海側の慰霊碑
- 来宮駅も丹那トンネルに支えられている
- 新幹線の新丹那トンネル
- 街に名残、新幹線区
- 丹那トンネルの歴史をめぐって
ついにトンネルがつながった!
1918年3月21日に工事が始まり、多くの困難を乗り越え、1933年6月にはついにお互いの掘削する音が聞こえるまで近づきます。
6月17日。鹿島組が工事をしていた三島側の方が中心線近くまで来ていたため、探りノミを入れる権利を得ます。
熱海側の切端の壁に、測量をした十文字を朱色のペンキで記されます。
そして予定の7時。十字の中心からほぼ誤差もなくノミが出てきました。
坑夫たちからはかすれた声で万歳という声が漏れます。嗚咽しているためただ息を吐いているような声。
三島側から、その穴に鉄管を差し込み、その鉄管から声が聞こえます。
「オーイ、きこえるか」三島の石川技師の声。
「石川君か。おめでとう。ノミは、ほぼ中心点に出た」
震えを帯びた声で答える熱海側。
そして、1933年6月19日11時30分、ついに貫通式を迎えます。
当時の三土大臣は大臣室で爆破合図のボタンを押し、その信号を受けてから、現地で発破スイッチを入れます。
炸裂音が響き、なかから流れてくる水が濁る。
確認に行った担当者を、関係者は待つ。
しばらくして戻った担当者から「無事、貫通しました」との言葉。
渇水問題の終息
鉄道省はトンネル工事を優先し、貫通後一挙に解決をするという約束を、被害者と静岡県に約束をしていました。
それまでも、住民はなんども事務所や鉄道省に陳情に来ていました。
それだけでなく、竹やりや旗を立てて、押しかけ、事務所を占拠することもありました。
最終的に国は灌漑設備を設置し、被害にあった農民に補償金を出すことで、解決することになった。
補償の請求は当時の費用で117万5千円。これはかなりの巨額でした。トンネルの三島口にある函南村の年間予算が8万円だったということでした。
そして、灌漑設備を含めて200万円を超えるものとなりました。
函南村では、米作から畑、そして酪農を推進していくことになりました。
函南駅
函南村からは当初から駅を設置の要望があったが、鉄道省は拒否をしていました。
「狐か狸を乗せるのか?」
ひどい言われようです。
しかし、この渇水問題もあり、鉄道省も拒否ができなくなり、駅を設けました。
函南駅です。
かわいらしい、ちょっと洋風な建物です。
まわりの駐車場も広くいいですね。
お店が全くないのがちょっと寂しい。
工事の完成するが日本の状況は最悪
トンネルとしての工事が進み、開通は1934年12月1日となります。
前日の22時東京発神戸行きの列車が初めて通過をすることになりました。
希望者が多く、15両編成という、当時では非常に長い列車となりました。
また日本放送協会はこの列車から中継をするという、一大イベントとなりました。
これにより、ついに箱根・丹沢・伊豆を短時間で超えることができ、日本経済にも大きく寄与することとなりました。
工事は16年弱かかり、工費は2,500万円、作業員は延べ250万人、そして犠牲者は67名。
工事により流れ出した地下水は芦ノ湖の3杯分。
ただ、このころの日本は大きな渦中にありました。
工事が始まった1918年は第1次世界大戦中。
1923年関東大震災
1931年満州事変
1933年国際連盟脱退
1934年丹那トンネル開通
1936年2.26事件発生
1937年日中戦争
1941年太平洋戦争
この路線を使って楽しい旅行ができた期間は短く、経済や戦争には有用だったでしょうけど、旅客という意味では厳しい時代になっていました。
三島側の慰霊碑
函南駅から熱海駅方向に行く右側の窓から一瞬黒い階段が見えます。
この上に三島側の慰霊碑があります。
もともとは線路の北側にあったそうですが、こちらに移転されたようです。新幹線の影響かな?
三島側を担当していた鹿島組が建てたものです。
三島側では36名の殉職者があり、この慰霊碑では全員の名前が掘られています。
かなり高い位置にあります。
残念ながらトンネルは見えません。
下に降りてもトンネルは見えない。
またここに至る道が非常にわかりづらい。
GoogleMAPでのナビや、車で行こうとすると、函南駅から大きく南に回る道を出されます。この道はもともとトンネル工事のための道だったらしく、かなり狭いです。
わたしもこちらから行きました。
突き当りに工場があり、そこの人に断って車を置き、工場横の獣道のようなところを登り、慰霊碑の横に出ました。
ただ、実は、上の航空写真を拡大すると少し見えるのですが、函南駅横の駐車場の右側から線路沿いに細い道があります。
非常に狭く歩行者のみですが、この道から工場と線路の間の狭い道を通ると、慰霊碑下の階段に出ます。本当に人一人が通れるくらいの道です。
正直これはわからない。
通っていい道には見えないんですよね。でもこの道が正式らしいです。
熱海側の慰霊碑
熱海側は、以前の記事で書いた丹那神社と同じ場所に慰霊碑があります。
ちょうど丹那トンネルの熱海口の上にあります。ここから始まった、という感じです。
かなり立派なモニュメントです。
ただ、ここも入口がわかりづらいです。
こちらには67名の犠牲者全員の名前が掘られています。
横には工事の写真がかざってあります。
横から見える丹那トンネルの熱海口です。
電車がトンネルへ向かっていきます。
来宮駅も丹那トンネルに支えられている
来宮駅は伊東線なので、丹那トンネルを通らない路線ですが、駅はこのトンネル工事で出た土砂の上に建てられています。
来宮駅の少し西側に行くとわかります。
土が詰まれ、高い土台になっていますね。写真の少し右に来宮駅があります。
新幹線の新丹那トンネル
戦前にも計画はされ、1941年に工事が開始されます。いわゆる弾丸列車計画は、戦後実現します。
新幹線ですね。
丹那トンネルの工事で得た知見をもとに、また戦後の技術発展を利用して、新丹那トンネルは、丹那トンネルの高さとして少し上側、位置は北側に設定されます。
しかし、1941年着工後、今までの経験を生かして進捗も早かったが、太平洋戦争もあり1943年に中断されます。その後、放置をされてしまいます。
再開は1959年までかかり、完成は1964年でした。
完成まではかなり短期間ですね。
トンネルの崩壊事故などはなかったものの、殉職者は21名にのぼりました。
やはりトンネル工事というのはかなり危険な工事なのですね。
合掌。
起工式では丹那トンネルの慰霊碑に献花がされました。
街に名残、新幹線区
函南には「新幹線区」という場所があります。
丹那トンネル工事に従事する人たちの住居があったそうで、ここでいう新幹線というのはいまの新幹線ではなく、戦前の弾丸列車の呼び名でした。
その後も新幹線工事の従事者も住み、今では函南に払い下げられました。
いまでは、新幹線区公民館とバス停の「幹線上」、「幹線下」が残っています。
丹那トンネルの歴史をめぐって
だいぶ長く書きましたが、いつも気にせず通っていた丹那トンネルと新丹那トンネル。
どちらかというと携帯がつながらなくなってイライラしてしまうところ。
しかも長い。
でも、そのトンネルにはとんでもない歴史があったのかということを知り、申し訳なく思いました。
いま、便利に思っていること、当たり前に思っていることにも、大変な積み重ねがあったのではないかと、思うようにしよう。
でも、そうした犠牲者の扱いというか、その辺りが寂しいですね。
隠しているわけではないと思いますが、あまりにも見えないところにある。
もっとしっかりと残そうよ、と思います。
大事なことです。
けっきょく、悲しいからといって目を背けては次の教訓にできず、より申し訳ない。