歴史に残すべき丹那トンネルの大工事を巡る旅。
丹那トンネルは、東京と大阪を結ぶ大動脈として、どうしても必要なトンネル。
しかし、地盤は悪く、大量の地下水があふれ、崩落事故も発生します。
また、トンネルの上にある丹那盆地にあふれていた豊富な地下水を枯れさせてしまい、住民の生活に大きな痛手を出してしまいました。
しかし、安心するもつかの間の大事故、そして災害が発生します。
もう、次から次への困難。事実は小説より奇なり、とはこのことです。
ここでは、吉村昭の小説「闇を裂く道」の記載をもとに書いています。一部諸説ありの部分もあります。
三島側で水が噴出
1918年着工した丹那トンネルは、熱海側の工事で1921年に大崩落があり、33人が巻き込まれ、16人は8日目に奇跡的に救出されたものの、17人の犠牲者を出しました。
三島側では、大量の地下水があふれ工事が進まず、また丹那盆地の住民からの反発が日増しに強くなっていました。
1923年9月1日の関東大震災の翌年、1924年2月10日。
この日は日曜日。作業員の多くはお休みでしたが、一部の作業員が内部にいました。
小説「闇を裂く道」の描写。
坑夫の浅利柳三は、トイレに行くため、坑内の仮設便所に行っていました。
近くの火薬置き場の佐野芳太郎と、前夜作業をしていたものから聞いた話をします。
「山が暴れている」
坑内を支えている鉄管がかすかに音を立てて曲がり、山鳴りもしているという。
9時20分、大音響とともに突風が吹き付け、二人はよろめきます。
事故を直感した二人は坑口へ逃げます。
背後からは土砂と泥水、鉄材、丸太が導坑いっぱいに押し寄せてきます。
天井に這い上がり、電線をつかんで必死に坑口へ向かいます。
二人が何とか外に出られたのは事故から40分たっていました。
連絡を受けた派出所の星野茂樹らは、導坑に入るも、途中から泥で埋まっていました。
おそらく事故が起きたのは一番奥。それは381メートルも先。
ということは、それまでのあいだはすべて泥で埋まっていると考えられました。
奥で作業をしていたのは16名。
急いで泥の上に板を敷き、奥へ向かいます。
必死の救助活動
いちばん奥の切端の天井は異常がないことから、下側から土砂が噴き出したことが判明しました。
また、もともとそこにあふれていた水を流すため排水溝があったのですが、泥で遮られており、水位が上昇している状況でした。
2月11日3時に救助坑の堀削開始。
地元の消防団、青年団も協力して泥をかき出し、新たな排水溝も作って水を外に出します。しかし、水は激流のように噴き出します。
閉じ込められているであろうところにノミを打ち込むと、その穴から水が噴き出てきた。
すでに水で充満しているであろうことから、生存の望みが薄いことが想像されます。
泥と水と土砂で、なかなか進むことができません。
27日3時。すでに事故発生から17日あまり。
ついに一人の男性の遺体を発見。
その体は天井に仰向きの状態で、板のあいだに挟まっていました。
右手は電線を固く握りしめていました。
引っ張っても体を外すことができず、板を緩めて外します。
「鼻が削られたように欠け、骨が露出している。」
水から逃れるため天井に這い上がり、板のあいだに体を突き入れた。水が上がってきたので、天井に必死に顔を押し付け息をしていた。その激しい動きで鼻が欠けた。
その後16名、すべての遺体を発見。全員が水死でした。
真の原因はわからないが、当日の作業として側面にあった大きな石を取り除く作業だったで、その石が土砂をせき止めていたが、外したため土砂を噴き出してしまった、という結論になりました。
こんな中いたくない。。。
鹿島建設のHPには、水がトンネルの出口からもあふれ出ている写真等があります。
結果的に、この工事であふれた水は芦ノ湖三杯分といわれています。
この事故により、世論は工事変更、中止という論調になっていきました。
おそろしい断層地震!
世間の風当たりは強く、再調査や丹那盆地の住民への補償など、費用も莫大になっていきます。
しかし、湧き水や悪質な土壌などの課題もありながら、工事は進んでいきます。
1930年11月26日早朝。三島側はある断層に到達していたため、水抜きなどを工事をしていました。
その時、轟音とともに、巨大な地震が発生します。
震源地近くでは震度6、ちょうど三島側のトンネル工事の先端は震源地だったため、崩落が発生。5名の坑夫が巻き込まれ3名の犠牲者が出てしまいました。
事故後、現場に行くと、地盤がずれていることを確認します。
下記の写真で、壁がありますが、地震前はまだこの先にトンネルはあり、ずれたことによって壁になってしまったというものになります。
激しい地盤のずれのため、この壁はツルツルになって鏡のように光を跳ね返していたとのこと。断層鏡面というものです。
また、天井と壁を支えていた左右の右側の柱がなくなっていました。
この写真でいうと左側に倒れた丸太がそうかなと思います。
しかし、坑夫が驚きの声を上げます。
この左にある柱は、もともと右にあった柱だと、言うのでした。
つまり、右から左に2mあまり地盤がずれ、右の柱が左に、左の柱は土の中に消えてしまった、という驚きの事実です。
断層がよくわかる丹那断層公園
この「地盤のずれ」がよくわかる場所があります。
丹那トンネルが通る丹那盆地の南に、その名も「丹那断層公園」があります。
断層を観察できる建屋があります。
北側の断面。
この赤い矢印の縦のラインが断層で、右と左がずれたというものです。
北側の図。
見事な切れ目ですね。左側が細かい石、右側はつるっとしています。
こちらは南面。先ほどと左右逆ですね。右側が細かい石状で、左はつるっとしています。
ちょっとそれでもわかりづらいという方は、この建屋の外を見るとわかりやすいです。
この写真を見るとただ石が並んでいるだけではありますが、案内板を見ると面白いです。
ここには水路と円形の屑捨て場があったのですが、左側が2m近くずれたため、この石の並びがずれています。
こういう感じですね。
草が生えているので知らなければ気にならないですが、意味が分かるとすごい「ずれた」のがわかりますね。
ジオラマもあります。
この断層地震のため、一直線で作っていた丹那トンネルは、微妙にS字にしゅうせいされたのだそうです。
この断層はその後の調査で700年周期であると断定されたため、次はかなり未来でしょう。ただ、関東大震災では安心したものの、やはり自然の力には太刀打ちができませんね。
今回で書ききるつもりでしたが、無理でした。次回、丹那トンネルの完成と最後の旅を書きます。
けっきょく、きちっと案内板は読もう。