けっきょくなにもしない

おじさんのひび

奇跡の生還!丹那トンネル工事の歴史

丹那トンネル工事をたどる旅。

聖地巡礼とは言ってはいけないが、やはり残すべき歴史と思います。

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この吉村昭作「闇を引き裂く道」を読んで知ることとなりました。

ここの記事もこの小説を基本に書いています。

 

 

 

 

丹那トンネル工事ではたくさんの悲惨な事故があった

現在のJR東海道線は、東京から静岡、名古屋、京都、大阪を通り神戸まで伸びています。

日本の大動脈ですが、明治から大正にかけては、小田原の国府津駅から北へ行き、松田、山北、足柄、御殿場、沼津と行く路線でした。

箱根の山を越えることはできず、長距離のトンネルを掘る技術もなかったので、仕方なかったですが、急こう配の坂だったため、スピードはでず、脱線や土砂崩れも多かった。

日本の経済のためには、どうしても距離の短い路線を作る必要があった。

そのため、箱根の南の山地、その下をトンネルを掘る、しかも複線を1つのトンネルで通すという、それまでにない大計画をたてました。

それが、熱海から三島に抜ける丹那トンネルでした。

先日は、その工事のため多くの水源を枯渇させてしまい、丹那盆地にいた人々の生活を一変させてしまった、その場所を回りました。

 

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今回は、その工事で起きた一つの大きな事故、その歴史をめぐります。

 

山が抜けた

1918年起工したトンネル工事。

三島側は鹿島組(現在の鹿島建設)、熱海側は鉄道工業(現在は残っていない)が請け負いました。

工事では電力が必要で、工事前に富士水電という会社から電力を買う予定でしたが、第一次世界大戦の好景気で電力需要が増え、価格を上げ供給を拒んだため、発電所を作ることになり、発電所ができるまで手で掘ったそうです。すげー。。。

 

そして1921年4月1日。

この日は、基本的にはお休みだったようですが、何名かは中でレンガ積みなどの作業をしていました。

4時20分、それまで何も異常が見られなかったトンネルに轟音が鳴り響き、掘り進めていた坑道の奥で崩壊が起きました。

トンネルの坑口から土煙が噴き出し、轟音が鳴り響きました。

何とか逃げ出した作業員は、顔の皮膚がさけ血が顔から胸にかけて流れ、肩の骨が折れていました。

 

小説で書かれている作業員の言葉。

「山が抜けた」

 

休みであったため、町に遊びに行っているものもいて、トンネルの中に何名いるかもわかりませんでした。いまでは考えられませんが。(最終的に33名がトンネル内にいたことが判明)

作業員がいたことは、助かった作業員の証言から間違いないこととなり、急ぎ救助活動が開始されました。

しばらくして三島の鹿島組からも救援が来て、救助坑が掘られました。

しかし、崩れた岩と支えていた木材に邪魔され、思うようにいきません。

途中、生き埋めのまま、かろうじて意識のある人もいましたが、救助できず亡くなってしまいます。

 

4つ掘っていた救助坑は遅々として進まず、作業中にも崩壊が起きたびたび中止。あっという間に1週間が過ぎました。

坑道の奥はおそらく崩落していないことから、そこで作業していたであろう17名が生き残っている可能性が残っていました。しかし、もし生きていても、酸素の欠乏やガス、湧き水のため、絶望的とも思われました。

 

奇跡の生還

昼夜を通じて救助作業をすすめていました。

この間、坑道の奥では17名は生き残っていました。

水は湧き水のおかげで何とかなるものの、食料はなく、また明かりもカンテラのみでした。

 

トンネルの奥に空気を送るための鉄管があって、事故の際にはその管をたたいて無事を知らせたり、管の中に食料を送ることもできるのですが、残念ながら管も押しつぶされていました。

 

湧き水の量はすさまじく、徐々に水位が上がってしまったため、高いところへと逃げていました。

 

彼らは座布団の代わりにしていた藁をたべていましたが、そんなものでは元気が出るはずもなく、みんな死を覚悟していました。

明かりがあるうちにと遺書を書く人もいましたし、救助の遅さに対する批判を書き残すものもいました。

 

そして8日目。4月8日21時20分。

「あいたぁ」

という絶叫。

責任者はその坑夫に聞きます。

「どのぐらい、あいたのだ」

坑夫が示したのは両手の指で輪を丸くしめした。

 

しかし、その穴の周りもまだ軟弱。簡単には広げられません。

午後11時、人がかろうじて潜れるほどの穴になりました。

救助坑の長さは27メートル。這っていくしかない大きさです。

 

救助の人たちが穴を通り、坑道へでます。

膝上まである冷たい水の中を進み、ついに丸太の上にうずくまる人たちを見つけます。人はかすかに動いています。

 

「この野郎、しっかりしろ。まだ、今日は三日目だぞ」

「ばかなことを言うな。今日は八日目だ。まちがいない」

 

よわよわしいものの、しっかりとした言葉。

すすり泣き。そして、「泣き声が号泣に変わった」のでした。

 

明かりがまったくないところにながくいたため、そのままでると失明する可能性もあるとのことで、目隠しをし、一人ずつ外へ連れ出します。

奇跡的に全員が治療の結果、元気になりました。

 

この事故では、16名がなくなり、17名が救出されました。

 

ちなみに、この4か月後、三島側に火力発電所ができましたが、世界大戦終結後に電力需要が急減したため富士水電は価格を下げ頼み込んできたことから、富士水電から電力を受け、ようやく電化しました。

 

救命石

生き残った17名のうち、11名は1個の大きな石のおかげで助かったのでした。

 

トンネル工事では、掘った土砂を大きなじょうごに落とし、その下にあるトロッコにためます。

そのトロッコがいっぱいになったら、人手や牛で押して外に出します。

 

事故の直前、そのじょうごに大きな石が落ち、じょうごをふさいでしまいます。

作業を中断しその石をみんなで出そうとしていた時に、トンネルが崩壊しました。

 

時間的にその石がなければ、11名はトロッコを押し、ちょうど崩壊した場所いるタイミングでした。

 

その石は救命石として、丹那トンネルの出口にある、丹那神社に祀られています。

とても小さなお社です。


でも大事にされているのがわかります。

 

お社の横に救命石があります。

本当に大きな石です。

逆に言うと、こういう石が崩れてくるのは日常茶飯事だったのでしょうね。

暗い中での作業、考えるだけで恐ろしいです。

 

来宮駅付近は、このトンネル工事で出された熱海側の大量の土砂により造成された場所に建っているとのこと。

このストリートビューの右側の方が来宮駅

土が積まれて造成されているのがわかります。

 

神社近くからの眺め。JR東海東海道線丹那トンネルへ入っていきます。

 

次は、災害にあった丹那トンネルをめぐろうと思います。

 

けっきょく、何気ない風景にも歴史がある。