日本の歴史の残る困難な大工事の現場へ。
函南へ
三島駅から熱海方面へ一駅。
函南駅。「かんなみ」と読みます。結構大人になるまで読めませんでした(笑)
とてもかわいらしい駅です。
ちょっと洋風な感じ。
このあたりから丹那トンネルが見えるかと思い、うろうろしますが、ちょうど角度的に見えない。
駅員さんに聞くと、ホームからはよく見えるということで、入場券購入し中へ。
ホームの端っこから見えました。丹那トンネルです。
なんどか通ったことはありますが、非常に長いトンネルだなと思いましたね。
左にちらっと見えるのは新幹線の新丹那トンネルです。
トンネルの上にある山の向こうには丹那盆地があります。
函南駅から三島側に少し行くと珍しい3連アーチの橋があります。「桑原川橋梁」というもので、こちらも丹那トンネルができてから作られた鉄道用の橋脚になります。
函南駅にはこれらを土木遺産として登録してある看板があります。
丹那トンネル工事前は、村人は幸せだった
小説の冒頭では、丹那トンネル工事前のこのあたりの描写があります。
いたるところから清らかな水が沸き、田んぼやわさび田があり、酪農も盛ん。
人々は豊かでやさしく笑顔が絶えず、トンネル工事が発表されると、工事関係者への協力も惜しまなかった、とあります。
こういう冒頭の記述は、「フラグ」だとは思ってしまいますが、とても素晴らしい村だったようですね。
この地図を見ると、函南駅の東側が盆地になっていることがわかります。そこが丹那盆地です。
ちょうど酪農王国オラッチェがあるあたりですね。
このあたりが特に豊かな場所だったようです。
また、鉄道がない村であったため、鉄道がとおり駅ができれば、村の産物をいろいろなところへ持っていける、売ることができると、とても喜んだそうです。
丹那トンネル工事で地下水が枯れる
丹那トンネル工事は大正時代からはじまりますが、そのころはまだボーリング調査ができず、地質学者も表面の土壌や地形を見て想定するしかなかった。
トンネルを掘ると、熱海側も函南側も非常に弱い地盤があったり、非常に硬い地盤があったりと大変な工事でした。
大きな落盤事故も起き、犠牲者も出ました(これはまた書きます)。
函南側では地下水の問題がありました。
この辺りは火山があり、非常に多くの地下水を蓄えていました。
トンネル工事が進むと、その水がトンネルにあふれ、最大で芦ノ湖の三杯分といわれる水が噴き出しました。
そして、丹那盆地の各地で川や湧き水、井戸から水が枯れていく事象が発生。
トンネルは地下100m以上の深さであるため、ありえないと、当時の鉄道省は最初は取り合わなかったのですが、水枯れはいたるところで起き、またトンネルの湧き水も尋常ではなかったことから、詳細調査を行い、トンネル工事が原因であることが特定されました。
わさび田は清らかな水が必要ですが、その水がなくなってしまい、また砂利を引いているので他の作物を作ることもできなかった。
井戸も枯れてしまい、飲み水も不足してしまった。
酪農でしぼった牛乳も冷たい水に容器を漬け、三島の工場まで持っていっていたが、それも難しくなった。
それまで温和な丹那盆地の人たちは、なんども建設を行っている事務所や、鉄道省、県庁などに陳情に行くが、なかなか満足な返答を得られず、ついに竹やりや蓆旗をたて、建設の責任者を取り囲み、何日も居座るなど実力行使に出ます。
小説でも、温和な人たちの顔つきが変わり殺気も持ち始めたと書かれています。
上記の静岡県のHPでは、1923年に初めて水枯れが発生し、補償による解決はトンネルが開通した1933年になりました。
渇水救済記念碑
この近くには地下水をくみ上げる施設もあり、地下270mの地下水をくみ上げて、上水道の水源として利用しているとのこと。
左の近藤春雄さんの碑は、稲作やわさびから酪農へ転換することを進めた方とのこと。
渇水救済記念碑の右にある川口秋助さんの碑。この方も酪農を推し進め、またトンネル工事に協力をしながらも、渇水が起きると、村を代表して陳情などを行い、補償を勝ち取った方。
盆地を見渡せるとてもきれいな場所に建っており、またきれいに整備をされていて、住民に大事にされていることがわかります。
近くを流れる柿沢川。
トンネル工事前はもっと広い河幅で水量も多かったとのこと。
近くには昔のわさび田の跡もあるそうですが、見つけられませんでした。
トンネル工事により村人の生活は一変してしまった。
この経験から、リニアの工事に敏感になる静岡県の気持ちもちょっとわかりました。
けっきょく、丹那トンネルの旅はまだ続きます。